台湾人の心に残っている傷

         
◎本省人と外省人とは

台湾の人口は約2078万4000人がいる。以前から台湾に住んでいた民族で9つの部族に分けることができる。戦後国民党とともに台湾に移ってきた中国大陸出身者とその子孫を「外省人」と言い、それ以前から台湾に住んでいた人々を「本省人」と言う。「外省人」という言葉は大陸中国でも他の省からきた人意味で普通に使われているが、台湾では特殊な意味がある。台湾人は自らを蕃薯仔(いもっ子)と呼ぶ。台湾の形がいもに似ているから。1945年、日本の統治が終わり、台湾の人々は中国からの軍隊を迎え入れたが、新たな悲劇の始まりとも知らずに、外来政権(国民党)の統治の下、台湾人は台湾人としての 誇りを込めて、自らを「いもっ子」と呼び続けてきた。「本省人」にとって、「外省人」は国民党による権威統治の象徴である。「二二八事件」を引き起こして「本省人」を殺したり、その後の「白色恐怖」で「本省人」を弾圧した。だから、「本省人」にとって、「外省人」は許せない敵の意味である。

現在台湾の李登輝総統がこの出身省の違いによる対立、つまり「本省人」と「外省人」の対立を解消するために、本籍法の本籍規定を削除することになった。台湾の人々は「身分証」がもっているが、かつては「身分証」に「籍貫」という項目があった。この「籍貫」に大陸の省であれば、「外省人」であることが知られた。これによって「本省人」と「外省人」をはっきり区別した。現在は戸籍をおいている出生地だけ記録している。それによって、「外省人」の子女であっても台湾でうまれれば、「身分証」の上で、「本省人」の子女とまったく区別がない。これは台湾のいわゆる民主化の過程で進められた融和政策の一つであるが、「本省人」と「外省人」の対立意識が強いので、この対立がすぐ解けるわけがないと思っている。

◎二二八事件とは

二二八事件というのは、1947年に台湾全土で発生した、国民党の政府軍と台湾市民の衝突である。多くの血が流れた。それから、「本省人」と「外省人」の対立が深刻になってきた。これも、反「外省人」として、はじまった「台湾独立」運動の原点である。この日は台湾の政治や社会にとって、大きな傷である。半世紀にわたって、今でもその傷が残っている。1997年2月28日に台北市の総統府の近くにある二二八和平記念公園で、二二八事件記念碑の碑文の除幕式が行われた。碑文をみれば、二二八事件の始末がわかる。

二 二 八 事 件 記 念 碑 の 碑 文

1945年日本が敗戦して、投降した。この消息が伝わると、みなが喜びに沸きかえり、不公平で不義の植民統治から離脱できることを祝った。しかし、思いも寄らないことに、台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く、施政は極めて偏向し、台湾の民を軽蔑した。さらに官吏の風紀は腐敗し、生産、販売は失調し、物価は暴騰し、失業は深刻となり、民衆の不満は沸騰点に達した。

1947年2月27日、専売局の人員が台北市延平北路において密売タバコ取り締まりを行った際、婦人の販売人を殴打し、通行人を誤って殺害したことから、民衆の激憤を引き起こした。翌日、台北の群衆はデモ行進を行い、長官公署に犯人の処罰を請求に訪れた。ところが、射撃にあい、数人の死者を出した。これより抗争の怒りの火は全面的に広がることになった。争いを解決し、積もり積もった怨恨を取り除くため、各地の指導者は事件処理委員会を組織し、調停にあたるとともに、政治改革の要求を提出した。

しかし、思い寄らなかったことに、陳儀は愚鈍で強情で、一方で調停に応じると見せながら、一方で地方のリーダーたちを反徒とみなし、南京に派兵を求めた。国民政府主席の蒋中正は報告を聞くと直ちに兵を台湾に派遣した。3月8日、21師団が師団長の劉雨卿の指揮の下で基隆に上陸した。10日、全台湾に戒厳令が敷かれた。警備総司令部の参謀長の柯遠芬、基隆要塞司令史宏熹、高雄要塞司令の彭孟緝、および憲兵団長の張慕陶らは鎮圧の時、罪のない人たちまで巻き添えにし、数ヶ月間、死者、行方不明は数万を数えた。そのうち、基隆、台北、嘉義、高雄、が最も凄惨だった。この事件は二二八事件と称えている。

それから半世紀、台湾は長期的な戒厳令下にあって、朝野とも口を閉ざし、誰もこのタブーに触れようとしなかった。しかし、屈服と鬱積は最後には発散されなければならない。省籍による反感と統一・独立の争いは特に苦しみであった。1987年の戒厳令解除後、各界は病が重く、和解が難しいことを深く感じ、二二八事件の調査、研究、国家元首の謝罪、受難者と遺族への補償、そして記念碑の建立を行った。社会の大きな傷を癒すためにはすべての国民がともに心を尽くすことが必要である。碑文を刻むことには天にある死者の魂を慰め、受難者と遺族の悲憤を鎮めるとともに、これを鏡とするよう国民に警告を与えることが趣旨がある。今後、敵味方を分かたず、一体となって、互いに助け合い、互いに誠実に、恨みをなくし、平和を永遠のものとしようではないか。宝の島に天の恵みあれ、永遠に栄あれ。

財団法人二二八事件記念基金会
中華民国86(1997)年2月28日

◎新台湾人

祖父母は日本語、両親は台湾語、孫は北京語で、学校では北京語、家では台湾語、祖父母との会話はできないという世代間ギャップはまだはっきりしているし、矛盾も多いが、時代は明らかに変わった。確実に人々の意識は変わってきた。特に若者たちは生まれも育ちも台湾なので、自分たちの親の世代とは違って、「外省人」、「本省人」という意識が薄れ、みんな台湾人だと意識している。大きな隔たりのあった言葉も本来本省人の話すと言われる台湾語と外省人が話す北京語が混ざり合い始めた。李登輝総統は1998年台湾光復節の前日10月24日光復(祖国復帰)53周年記念談話を発表した。そのなかで「新台湾人」という言葉が出た。「新台湾人」というのは「外省人」、「本省人」に関わらず、台湾で生きている人々全部「新台湾人」という。「新台湾人」をとしてのコンセンサスを凝集し、不撓不屈の「台湾精神」を発揮し、子孫の将来のために、光明の前途を創造しようという意識である。


Back to:

Lin yusen's Home Page